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世界共通の目標であり、JPFも達成を目指すSDGs。ゴールの2030年に向けて、世界中の人々が、様々な課題と向き合っています。
人道危機、気候変動、環境破壊などの地球規模課題から、日々の生活に関わる身近な話題まで、SDGsという観点を踏まえ、JPFスタッフが日本と海外の事情について紹介します!
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こんにちは!JPF事業管理部のFです!
新型コロナウイルスの感染拡大以前には、長期休暇が取れると海外に赴き、戦争にまつわる遺跡や史跡をめぐる旅をしていました。今回は、私が訪れた旅先の中からベルギーについて取り上げたいと思います。
訪れたのはベルギー西部の小さな町、イーペル。ベルギーの首都ブリュッセルから電車を乗り継ぎ2時間半、日本人にとってなじみの薄いであろう町です。(数年に一回行われる猫祭りという奇祭があるそうです。猫好きの方はぜひ…)
イーペル市街、その奥は激戦が繰り広げられたエリア
今となっては何の変哲もないベルギーの田舎町ですが、イーペルは世界で初めて毒ガス兵器が使用された町として知られています。さかのぼること第一次世界大戦時、ここイーペルは屈指の激戦地であり、巨大な塹壕を用いて徹底抗戦するイギリス・フランス・ベルギー軍に対して、形勢逆転を目論むドイツ軍が毒ガスを用いました。その臭いから「マスタードガス」の異名を持つ「イペリット」の名も、ここイーペルで初めて戦闘に利用されたことに由来します。
第一次世界大戦中に3回にわたる激戦を繰り広げたイーペルの街は壊滅状態に陥りました。戦後復興に際して、極力戦前の街の姿に戻すよう努力がなされ、現在ではゴシック様式の重厚な建築物「織物会館(Cloth Hall)」等を見ることができる観光地となっています。イーペル市内のイン・フランダース・フィールズ博物館では第一次世界大戦にまつわる展示、特に前述の毒ガスにまつわる展示があり、戦争の悲惨さを現代に伝えています。
織物会館(現 イン・フランダース・フィールズ博物館)
話が逸れますが、第二次世界大戦後にはこのマスタードガス(イペリット)が抗がん剤の発展に寄与します。毒ガス兵器に限らず、最先端の科学技術は人を殺めるためではなく、生活を豊かにするために使っていきたいものですね。
JPF広報部の坪井です。
久しぶりの掲載となりますが、今回も、多民族の平和的共存という課題に関連して、コソボについて取り上げます。
ユーゴスラヴィア連邦を構成するセルビア共和国内の自治州であったコソボでは、1980年代の終わりごろから、セルビア系住民とアルバニア系住民との対立が深まり、1990年にはアルバニア系住民がセルビアからの独立を宣言しました。セルビア側はコソボの自治機能を停止して、直接統治を図りましたが、アルバニア側がアルバニア解放軍(KLA)を組織したことから、武力闘争へと突入していきました。
1998年には、セルビアがKLAの掃討作戦を開始し、1999年3月のNATO介入によって紛争は激化。結果として約50万人のアルバニア系住民が難民として周辺国に流出しましたが、6月には、セルビアの治安部隊が撤退し、国連の暫定行政が敷かれ、アルバニア系住民もコソボに帰還しました。逆に、20万人以上のセルビア系などの非アルバニア系住民が、セルビアやモンテネグロへ避難することとなりました。
2008年2月には、コソボ共和国の独立が宣言され、かつて難民として周辺国に逃れたアルバニア系住民は、自治州ではない独立国の国民となりました。一方、コソボに残った約9万人のセルビア系住民は、自治州であった時代には、セルビア内の多数派であったものが、独立後のコソボでは、人口170万人の中の完全な少数派へと立場が変わりました。
現在も、コソボの北部地域では、アルバニア系とセルビア系の緊張状態が続き、外務省もレベル2の危険情報(不要不急の渡航を止める)を出しています。そんなコソボですが、欧州にいた時に一度、旅行したことがあります。首都プリシュティナに滞在中、郊外にあるセルビア系住民の暮らす地区を訪ね、世界遺産に登録されたセルビア正教の修道院などを見て回りました。セルビアの政党の事務所もあり、やはりセルビア色の強さを感じましたが、落ち着いた状況に思えました。
プリシュティナに戻るバスを待つ間、サッカーに興じる子どもたちを眺めていましたが、何の気兼ねもなく遊ぶ姿には、何だかほっとした気持ちにさせられました。このような日常の風景が脅かされることのないように、何とか民族間の対立を解消していってもらいたいものです。ちなみに、子どもたちは、珍しいアジア人にかなり興味を示しており、仲間に入れてもらえそうでしたが、私は野球少年だったので、サッカーは遠慮しておきました。
JPF広報部の坪井です。
これまでに中東欧諸国での経験について何度か触れてきましたが、約20年に渡る同地域との関わりは、大学院時代のゼミで旧ユーゴの解体について調べたのが始まりでした。その後、ユーゴスラヴィア研究の専門家に師事して更に関心を深め、やがて、研究や仕事としては、チェコやスロバキアを選ぶことになりましたが、旧ユーゴにおけるボスニア・ヘルツェゴヴィナ(以下ボスニア)紛争やコソボ紛争に見られる多民族の平和的共存への課題は、長く自分の問題関心として留まり続けています。
1992年に紛争が勃発したボスニアでは、それまでに共存してきたムスリム系、クロアチア系、セルビア系の3民族が独立や自治を巡る動きの中で対立し、死者20万人、難民・避難民200万人という最悪の事態に陥りました。国際社会の介入もあり、1995年には和平合意が締結されましたが、結果的には、ムスリムとクロアチア人によるボスニア連邦とセルビア人によるスルプスカ共和国の2つの主体によって構成される国家連合となりました。なお、ボスニアの元首は大統領評議会の3民族のメンバーによる8か月ごとの交替制となっています。
思えば、ボスニアの首都であるサラエボは、ボスニア紛争の激戦地であっただけでなく、第一次世界大戦のきっかけとなったオーストリア皇太子暗殺が起きるなど、国や民族の相克の舞台となってきました。他方で、1984年にスポーツと平和の祭典であるオリンピック(冬季)が開催されたことから、人々の融和と協調への願いを象徴する場所という見方もできるかもしれません。
数年前に初めて訪れたサラエボの街では、建物の弾痕や実際に狙撃手が狙いをつけていたスナイパー通りなど、紛争の名残が否応なしに感じられましたが、街には、モスクとカトリックの教会が存在し、多民族、多文化、多宗教の均衡が図られているようにも見えました。セルビア人側とは、まだまだ隔たりがある中、元首の交替制度やEU加盟という共通目標が、より平和的で持続的な多民族協調体制へと繋がっていけば良いのですが。
弾痕が生々しいサラエボ市内のアパート
こんにちは!3月にJPFに入職した橋本です。
私からはアメリカ・ニューヨークで体験したお話をしたいと思います。
アメリカ・ニューヨークというと、「自由の女神」、「タイムズスクエア」、「芸術・文化の中心」、 「チーズケーキ」など世界中の人が知っている大都市ですね。
タイムズスクエア
私はマンハッタンという地域に住んでおりました。家から一歩外に出れば、多様な人種の方々が街を行き交い、様々な言語が飛び交う。アメリカ生まれ・アメリカ育ちを探すよりも、移住者を見つける方が圧倒的に容易いこの地域。さらに、国連本部まである。もはやアメリカの一都市というよりは、「世界の首都」と呼ぶにふさわしいでしょう(私見ですが)。
国連本部前
多くの魅力を備えるニューヨークですが、そこには母国に帰国したくても帰れない人もいます。私の友人でした。
彼女はトルコ人ジャーナリスト。アメリカの大学院でジャーナリズムを学ぶために滞在していました。ニューヨークで同じトルコ人と結婚し、披露宴には私も呼んでくれました。
そんな彼女にある日突然災難が降りかかります。ハネムーンでアメリカ国内を旅行していた時に、旅行先でパスポートを盗まれたのです。その後、大使館へ再発行の手続きに行ったところ、これを拒まれてしまいました。
当時トルコでは、2016年のクーデター以降、同国大統領に批判的なメディアやジャーナリスト、教育者や知識人が逮捕されている状況にありました。彼女が所属していたメディアも襲撃にあい、ジャーナリスト仲間も逮捕されていました。彼女も例外ではなく、実家に政府関係者が取り調べに来て、居場所を聞かれたといいます。
「帰国手続きは可能だけれど、帰国したらアメリカには戻れない。逮捕されるわ」
「もう何年もお母さんに会えていないの、抱きしめることもキスもできない。とても辛いわ。」
彼女はアメリカで難民申請を行いました。
自由の国、アメリカ。そんな国で、不自由を強いられている人がいるという現実。
「難民」という言葉を聞くと、紛争から逃れてきた人々を真っ先に思い浮かべる方が多いと思います。でも、私の友人のように政治的な問題によって難民になり、支援を必要としている人がいることをどうか忘れないでください。
JPF広報部の坪井です。
2月中旬、福島県沖でM7.3の地震が発生し、宮城県と福島県では、最大震度6強が観測されました。東日本大震災から間もなく10年という時期でもあり、激しい揺れのあった地域の方々にはことさら不安な気持ちがよぎったことと思われます。また、日本以外でも、3月初めには、ニュージーランド沖において、M8前後の巨大地震が数回発生し、津波も観測されましたが、こちらは幸いにも被害はなかったようです。
ところで、ニュージーランドの人々にとっても、今年は地震災害から10年となります。東日本大震災の3週間前の2月22日、ニュージーランド南島のクライストチャーチ付近で発生したM6.3のカンタベリー地震では100名以上が亡くなり、その中には、日本人留学生なども含まれていました。当時、私はチェコにいましたが、同僚がニュージーランドの被災地に支援に行ったこともあり、この地震については、よく覚えています(ただし、チェコ時代のいつであったかまでは記憶しておらず、東日本と同じ年であったというのは完全に失念していました)。
ニュージーランドは住みやすい国として上位に選ばれることが多く、観光地や留学先としても人気がありますが、上述の通り地震国(または島国・火山国)でもあります。北東のオークランドに滞在していた時に、郊外を散歩しながら見つけた丘を登ったら、そこがマウント・イーデンと呼ばれる火山跡だったなんてこともありました。そのように共通する特性があることから、2020年11月、日本の国土地理院は、ニュージーランドとの間で、測量技術の連携強化のための協力文書を締結しました。協力の中には、日本の技術を活かしたニュージーランドの防災・減災の支援も含まれており、そうした取り組みを通じて、地殻変動を正確に把握するための技術の更なる高度化を目指すようです。両国が、10年あるいはそれ以上の年月をかけて積み重ねてきた努力が、地震被害の軽減へと繋がる技術を前進させることになれば幸いです。
JPF地域事業部の池座です。
(3/9のつづき)
最初の1年間は沿岸部の壊れた駐車場や郊外の河原などで車中泊をしながら、来る日も被災者、避難者、支援団体との対話の中で1つでも多くの解決の糸口を模索していました。避難所の運営や、泥かき、被災者の小さなお店の再建のため看板やキッチンづくり、水産加工商品や復興商品の販促、被災者宅のIT環境の整備など、自分にできることは何でもする日々がつづきました。その後は社宅のような形で寝泊まりする場所が確保され、2年がたち、3年がたち、5年がたち、いくら自分がのたうち回っても、課題は一向になくなる様子はなく、自分がかつて想像してきたような“解決の一助となる”ような状況とは、ほど遠い現実を目の当たりにしました。常に自分の力不足を痛感させられる日々の中、言いようのない絶望に胸をさいなまれ、気づけば毎晩、宿舎の近くの小さな神社に立ち寄り、今日聞いたことをどう解決するかを小石で地面に描き、祈り帰宅するという妙な習慣が身についており、いつしか精神クリニックに通うほどに追い詰められていました。そんな中でも、まわりの仲間や被災地域の住民などに励まされ助けられ救われ、微速ながらも何とか前進しつづけることができたように思います。
その後は、遅ればせながらも自分ひとりの力では到底足りないことに気がつき、より多くの人々や団体を巻き込み、より組織的に、より効率的に物事を動かすという道を選択するようになっていました。7年が経過した頃から、被災地からより東京をベースとした関わりへと徐々に移行していきました。
そして発災から10年を迎えようとしている今、東日本に関わりつつも、被災者、避難者、被災地からは遠く離れ、あの時の純粋な気持ちをどこかに置き忘れ、多くのことが “仕事”になっている自分、被災者や避難者の悩みの解決のためでなく自分の中の葛藤にさいなまれている自分が、そして自分の人生からも距離を置いている自分がいることに気づきました。
勝手に支援に関わり、勝手にもがいている滑稽なわたくしのストーリーを長々とつづらせていただきました。
この10年という節目は、被災者、避難者、被災地にとってはただのキリの良い数字でしかありませんが、私はこの10年という節目をかりて、あの時の思いに立ち返り、これまで歩んできた道を振り返り、これからの自分の人生や東日本大震災にどう向き合っていくかを真剣に考えてみたいと思っています。
そんな思いで本企画に関わったわけですが、当事者として支援者として、一個人として、東日本にまったく関わらなかった人、影響を受けなかった人はいないように感じています。
どうぞ、この機会に東日本に関する皆さんのストーリーを、綴っていただけると幸いです。
JPF地域事業部の池座です。
(前回2/4のつづき)
Voice from 3.11の企画に最初に有志として関わった理由としては、今振り返れば、自分がこの10年の間に抱えてきたモヤモヤした気持ちを整理するためだったように思います。
2011年のあの大震災の瞬間から約10年間、私はさまざまな形で東日本大震災に関わってきました。最初は一個人として、一ボランティアとして、困窮者支援団体のメンバーとして、その後、全国ネットワークのメンバーとして、資金助成団体のメンバーとして。
私はもともと東日本とは深いご縁はなく、高校卒業後に福島の美しい自然を求め、東京から自転車で一人旅をし、裏磐梯の清流地域で2週間程のキャンプ生活を送った思い出があるくらいでした。発災前の自分は東京で気の合う仲間と共にシェアハウスで楽しく暮らし、自分で立ち上げた会社でIT業務を生業としながら、週末は仲間と農業をし、空いている時間は社会活動に勤しむ。そんな自由気ままな人生を歩んでいました。そして、あの時を境に、これまでの暮らしの多くを置きざりにし、今を迎えています。その流れは自分では止めることの出来ない大きなうねりであったように思います。
はじめて東本大震災の被災地に訪れたのは2011年3月20日ごろ。結婚して4か月も経たないうちに東日本の支援に身を投じ、以降約7年間は東日本の各地で単身暮らすようになりました。発災当時は東京の困窮者支援団体のスタッフとして宮城県からはじまり岩手県、福島県の沿岸部の現場に幾度となく足を運び、被災者や避難者の悲痛な声に触れ、一つでも多くの悲しみをなくしたいという一心でした。
途中からは所属団体から一定の報酬を受けとり生計を立ててききましたが、一度として仕事として関わっていると思ったことはありませんでした。もし自分にとって“仕事”になってしまった時は潮時だと考えていました。(つづく)
こんにちは。JPF管理部/事業管理部の保田です!
(前回のつづき)
今になって考えてみますと、私が子供の頃可愛がってくれた伯父は確かに筋の通らないことは嫌いな真っすぐな人でしたが、その後マレーシアは経済成長を遂げ、それなりのインフラが必要となったことは間違いなく、段階的にインフラを整備するような考え方が果たして正しかったのかは正直なところ良くわかりません。しかし、近年のボルネオ島の開発の手は留まるところを知らず、世界有数の熱帯雨林の約半数が失われたことにより、地球の酸素供給能力が弱りつつあることや、オランウータンやスマトラサイなどは絶滅の危機に瀕していることが報道されています。
NGOがそれらを食い止めるべく活動を続けている様子などを見るにつけ、農業振興だけではありませんが、地域の人たちへの影響や地球規模の環境への影響など多方面からの検討を行った上で最善の協力を行うという視点が現在では必要ということは言えるのではないかと思います。そして、そのような多方面からの検討を行う視点は開発支援にとどまらず、私たちJPFが行っている緊急国際人道支援活動にも、国際NGOの目線にローカライゼーションの目線を加味するかたちで生かされるべきだと考えるのです。
キナバル山の登山のお話に戻りますと、無事登頂もできましたし、その景色も素晴らしいものでしたので満足しましたが、「比較的容易に富士山より高い山に登ることができる」の「比較的」というのがくせ者でした。登山道の傾斜が半端なく、特に下山時に膝が笑う状態をこらえ続け、なおかつ雨具の着用など何の役にも立たない程度のスコールに遭い、靴をもはや履いているのかいないのかわからない感覚に陥り、登山口に戻ったときには足が白く腫れあがり、旅を終えて日本に帰ってからもしばらく足を引きずって歩くこととなるのでした。お陰でボルネオ島でのその後の行動は制限されたものとなり、心の友と会うことはかないませんでした。
こんにちは。JPF管理部/事業管理部の保田です!
ボルネオ島のマレーシア領内には東南アジア一標高の高い山キナバル山(4,095m)があり、比較的容易に富士山より高い山に登ることができるのをご存知でしようか?ボルネオ島には世界有数の熱帯雨林があり、この島にしか生息しない動植物など生物多様性のお手本のような島と言われています。世界最大の花であるラフレシアやオランウータンに出会うこともできます。ちなみにオランウータンは「森の人」という意味です。私などは小学生の息子からパパではなく、狒々(ヒヒ)と呼ばれています(家族旅行で行った栃木県のモンキーパークで見たヒヒが私に良く似ていたとのこと)ので、オランウータンのことを勝手に心の友と考えています。
さて、お話は20年ほど前に遡りますが、そのキナバル山に登りに行くため登山口のある町まで路線バスに乗っていると、隣の座席に乗り合わせた現地マレーシアの方から話かけられ、私が日本人であることがわかると「どうだ。立派な道路だろう。この道路は日本のODAで作られたものなんだよ」と教えてくれました。その途端忘れていた記憶が呼び起こされました。
今は亡き私の母方の伯父はかつて日本のODA資金を財源としたボルネオ島の幹線道路開発の現場監督をしていましたが、その当時のボルネオ島の実情を理解した伯父は、現場を一時離れ、その当時働いていた組織の本部において、「今は現地の人々に資するのは農業振興に必要な農耕用のトラクター等が通れる道を数多く整備することであり、日本の基準を持ち込み大規模な開発道路を作るのはいかがなものか」と直訴したということが、ある種の武勇伝として私の母の親族の間で伝えられ、私も聞きかじったのでした(今は天国にいる伯父さん、50年以上前の話ですから書いてしまっても大丈夫ですよね)。その直訴が本部に受け入れられることはなかったのでしょう。私は快適なバス旅を謳歌できたのでした。(つづく)
こんにちは、JPF事業推進部のおかわりです!
難民、と聞いて皆さんは、どんなイメージを思い浮かべるでしょうか。
私が留学していたヨルダンは、シリアやスーダン、イエメンなど、国内で紛争が起きている国に囲まれています。そのため、各国からヨルダンに逃がれてきた「難民」と呼ばれる人たちにも、友人としてたくさんお世話になりました。
「婚約していた彼は戦争に行ってもう連絡がつかないの。もう6年経つわ。でも、もう前を見るわ。私には私の人生があるから」
そう話すシリア人の彼女は、当時23歳でした。家族や友人、婚約者など・・・彼女は私が経験したことのない「身近な人を失う」という経験を、既にたくさんしていました。
スーダン人の友人は、お金がなく家賃が払えません。同じアパートに住んでいるパレスチナ人に、代わりに家賃を払ってもらって暮らしています。彼女は旦那さんと小さな息子、赤ちゃんの4人暮らし。旦那さんは日雇いの仕事をしていて、その日の朝に仕事がなくなることもあります。
イエメン人の友人は、ようやく雑貨店での仕事を見つけても、日給はヨルダン人と比べ不当に低く、1日休むと次の日働いた分の給料まで払ってもらえません。
みんな、自分の国に住めなくなりヨルダンに逃げてきました。知り合いも友人もいない国で、お金もなく、難民として暮らすことは本当に大変です。それでも、彼らはホスピタリティに富み、私たち日本人留学生が困っているといつでも助けてくれました。いつも私たちに親切にしてくれた彼らを少しでも手伝いたい、そんな気持ちもあって、今、私はこの仕事をしています。
フィジーのカンダブ島
こんにちは、JPF事業推進部の井出です。
今日は、私が依然赴任していた太平洋に浮かぶ、フィジー共和国(以下フィジー)のお話をしたいと思います。
フィジーは、オーストラリアの東、ニュージーランドの北にあり、日本からは約7000km離れています。約330の島々があり、国の面積は日本の四国ほど、人口は約85万(東京の世田谷区と同じくらい)の小さな国です。
長期専門家として、「大洋州地域 地域保健看護師のための現場ニーズに基づく現任研修」というJICA技術協力プロジェクトに従事し、多くの島々が点在するフィジーにおいて、重要な役割を担う地域看護師(島に居住、または駐在する)への各種の技能向上研修、看護師基準の作成・看護指導官マニュアル作成等を担当。フィジーに暮らす女性・地域看護師の地位向上、技術・知識向上のための活動を実施しました。
島間移動のための保健省保有の巡回船
フィジーでは、とにかく女性が元気なことに驚かされました。社会に出て働くことはごく普通のこと、当たり前のことで、子育ては家族や地域皆で一緒にする、という考えが根付いており、核家族化が進む日本とはずいぶんと違いました。そして、その中で、女性の一生涯の仕事・職として「看護師」は大変やりがいがあり、地域への貢献度も高く、かつ引く手あまたのため(どこに行っても働き口があり、失業の心配もない)、大変人気が高かったのです。そんな彼女たちが、点在する島々において、島の住民の健康をしっかりと維持・管理し、適切な治療ができるように、プロジェクトでは医療技術の保持、地域医療情報のアップデート、そして彼女たち地域看護師が、一生働き続けられるようにするための様々な研修や指導官のマニュアルを実施・作成しました。
島の診療所
彼女たちは、本当に明るく、保健省も医療施設も、いつも笑顔と笑いとお菓子(笑)で満ちていました。家に帰っても、家族・家計の中心はお母さんである彼女たちでした。こういうと、では男性は何をしている???男性の居場所は???と思われるでしょうが、フィジーはラグビーが国技であり、昨年日本で開かれたワールドカップにも参加するほどの強豪で、その人気は留まるところを知らず、ラグビー選手たちの男らしい雄姿に多くの女性がうっとりし、試合を観戦していました。フィジーでは、そこら中の公園や原っぱで草ラグビーをしている子供たちの姿をよく見かけました。よくよく見ると女子も普通にプレイしていて、頼もしい限りです。
JPF地域事業部の池座です。
これまで東日本大震災発災以降かかわり続けてきた東日本大震災被災者支援に向け、日本社会に対しいまだ復興過程にある東日本のつぎにつながることが何かできないかと考え、当事者を含めた様々な支援組織と共に、東日本大震災10周年企画「Voice from 3.11」に参加しています。この企画は、最初は当事者、支援者の有志が集まり、こんなコロナ禍だからこそ10年という節目に、あの時の想いやこれまでの経験を振り返り、社会的には忘れられつつある東日本のこれからを見つめ直す、そんな機会をつくれないかという想いで2020年2月頃から話し合いがはじまり、今は実行委員会形式で運営されています。
企画の主な趣旨は2つ。
(1)被災された方、避難を余儀なくされた方、その人々を支えてきた方のありのままの声を集める。
(2)集めた声は「一人ひとりのことば」として広く伝えていき、その言葉から大切なメッセージを紡ぎ出し、それらをテーマに対話し次の世代へとつなげていく一助とする。
企画内容としては3つ。
(1)ことばの集い
社会的節目となる震災10年を機に、一人ひとりの暮らしの再建や復興に向けた取り組みの中で、被災された方、避難を余儀なくされた方、その人々を支える支援者など、私たちが経験して気がついたことや大切にしてきた「それぞれの言葉」を集め、社会に広く伝えていきます。また、その言葉を後世に残すアーカイブ化を図る。
https://voicefrom311.net/kotoba-no-tsudoi/
(2)つながりの集い
オンラインで被災地域の住民や支援団体、その地域に関わった支援団体、企業、ボランティア等が集まれる場をつくる。(例:つながりの集い in 石巻/つながりの集い in 陸前高田/つながりの集い in 浪江…など)
https://voicefrom311.net/tsunagari-no-tsudoi/
(3)みんなの集い
被災された方や避難を余儀なくされた人、そしてその人々を支えてきた支援者や心を寄せてくれた人がオンラインで一堂に会し、共にこの10年を振り返り、それぞれのことばに耳を傾け、その経験と教訓を東北の未来へとつなげる機会とする。
https://voicefrom311.net/mina-no-tsudoi/
当事者として支援者として、一個人として、東日本に何らかの形で関わられた人、影響を受けた人は日本国内外に多くいらっしゃると思います。
どうぞ、この機会に東日本に関する皆さんのストーリーを、以下のサイトより綴っていただけると幸いです。(最大500文字)
こんにちは、2015年から2020年までインドに滞在していた渉外部のKです。
インドを訪れるきっかけは大学生の頃、バックパック旅行をしており、バックパッカーといえばインド!というイメージからでした。今回は2013年の初インド旅行の際に訪れたバラナシについてご紹介させていただきます。
バラナシはガンジス川沿いの街であり、ヒンドゥー教徒にとっては聖地として親しまれ、多くの信者が沐浴をしています。また、川沿いにある火葬場も名所の一つで、ガンジス川に遺灰を流せば輪廻からの解脱が得られると言われています。(子供や一部の人のご遺体は焼かずにそのまま流すらしく、川に浮かんでいるのを見た時は衝撃を受けました)
一方でガンジス川は生活用水として人々の洗濯や入浴の場としても利用されています。同時に未処理の工場・生活排水が流れ込んでしまった結果、川は酷く汚染され、茶色く濁り、沐浴するのは危険と言われるほどになっています。
そんな水質汚染を改善しようとインド政府や日本政府をはじめ民間企業・NGOなどの各セクターが長年に渡り、下水処理の整備や公衆衛生の啓発活動など様々な取り組みを行っています。
2019年の夏、改めてバラナシを訪れた際にはインドの猛暑の中、楽しそうに子供たちが水遊びをしていました。ガンジス川はまだまだお世辞にも綺麗とは言い難いですが、子供たちが健康への悪影響なく思いっきり遊べるようになるためにも安全な水衛生環境の大切さを改めて感じました。
JPF広報部の坪井です。
前回は台風ハイエンの上陸時の出来事について紹介しましたが、今回はセブ島から船で南東に1時間くらいの環礁の中に位置する人口数百人の小さな島のお話しです。
セブでの滞在も残り1週間くらいとなった頃、学校で知り合った人から、島に行かないかと誘われました。日本人が所有するカオハガンという島へのツアーがあり、リゾート島に遊びに行くのではなく、島民の暮らしを見学させてもらうという内容だったので興味深く思い、同行することにしました。
カオハガン島
島に到着すると、島に滞在する日本人ガイドに案内されて、船の着いた砂浜から、休憩スペースのある島の反対側辺りまで移動しました。歩きながら説明を聞いているうちに、あっという間に着いてしまい、本当に小さな島なんだなと驚いたことを覚えています。
日本人が島を所有している理由は単純で、ただ、島に惚れ込んで購入したとのことでした。しかし、時間が経つにつれて、何だか申し訳ない気持ちが高まり、そこで、島の豊かな自然を守り、島民の生活を維持する、更に、それらをより良いものにしていきたい、そのような指針を掲げられたそうです。
また、島の女性たちにパッチワークを教えたところ、最初は1人だけでしたが、徐々に広まり、私が訪問した時には、多くの女性たちが、キルト製作を行っていました。彼女たちの作品は、「カオハガン・キルト」として、日本でも購入できるようです。ちなみに、私もその時に買ったランチョンマットを今でも使っています。
ところで、島のオーナーの指針ですが、それってまさにSDGsの目指すものと同じなのではと、改めて思い至りました。また、女性たちのキルト製作もSDGsの8番目のディーセント・ワークに繋がっている気がします。
現在、コロナ禍で宿泊施設は閉鎖されているため、外部の人間が訪れて、島の自然に触れたり、島民と交流したりすることはなかなか難しいかもしれませんが、これからも島の自然と人々の共生が、持続していくことを願っています。
カオハガン島オフィシャルサイト
https://caohagan.com/
カオハガン・キルトについて
https://caohagan.com/quilt_1/
JPF広報部の坪井です。
2021年1月1日付でフィリピンのセブに日本総領事館が開設(領事事務所から格上げ)されたそうですが、そのニュースを読んで、2013年秋のわずか3週間、しかし、ものすごく中身の濃かったセブ滞在時の出来事が脳裏に浮かんできました。。。
セブ島はリゾート地として有名ですが、多くの日本企業も進出しており、その中には、日本人経営の英語学校もいくつか含まれています。欧米の英語学校よりも授業料が安いことから、けっこう人気もあるようで、実際、私も安さに魅かれて短期留学してみた口でした。
さて、セブに来てから10日くらい経ったある日のお昼休み、突然、生徒全員が会議室に集められました。そこに、日本人オーナーが現れたので、ひょっとして不渡りでも出したのかと思いましたが、オーナーから告げられたのは、超大型台風が接近しているため、翌日は休校とするが、生徒は全員、学校で待機してほしいという話でした。
2013年11月8日にフィリピンに上陸し、死者・行方不明者7,000人以上、被災者は約1,600万人という甚大な被害をもたらした台風ハイエン。最も被害の大きかったレイテ島の西に位置するセブ島では、北部で被害が出たものの、学校のあるセブ島中部では大きな被害はなく、幸い生徒や関係者が被災することはありませんでした。
学校の入っている高層ビルはITパークと呼ばれるビジネス区画にあり、自家発電が可能で、水や食料も備蓄されていたため、特に不安を感じることはありませんでした。なお、この日は市内全域で停電が発生したらしく、やはり、学校での待機という事前の判断は適切であったと感じ入りました。また、教師とその家族のために、学校が借りている別のフロアを避難所として開放していたそうで、教師の一人が、「家で過ごすのは心配だったので、すごく助かった」と話していたのも印象に残っています。
セブのITパーク
セブでは、災害に対する平時の備えや早めの退避行動は重要だと身をもって感じましたが、近年のアジア地域での台風・豪雨被害の頻発を見ると、併せて、世界各国による気候変動リスクの緩和や軽減のための対策も欠かせないように思えます。まさに、SDGsの13番目の目標「気候変動に具体的な対策を」のターゲットにあるように、気候変動起因の自然災害に対するレジリエンスを強化し、そして、各国が気候変動対策を政策や計画に盛り込むことが求められています。
▼JPFフィリピン台風30号(ハイエン)被災者支援(2013.11~2014.5)
https://www.japanplatform.org/programs/philippines-typhoonHaiyan2013/
広報部の坪井です。
これまで、SDGsの7番目の目標「エネルギーをみんなに そしてクリーンに」に焦点を当てて、欧州各国のエネルギー事情を何度か取り上げてきました(2020年5月16日、2020年11月6日の記事)。今回は、馴染みの中東欧地域を離れて、はるか北に位置するアイスランドのエネルギー事情について、簡単にご紹介したいと思います。
北米プレートとユーラシアプレートの境目「ギャオ」
ゲイシール間欠泉
アイスランドは日本と同様に島国であり、そして火山国でもあります。旅行の際に訪れた人気の観光スポット「ゴールデンサークル」では、ユーラシアプレートと北米プレートの境目が表出した「ギャオ」やゲイシールの間欠泉に加えて、氷河から溶け出した水が流れ落ちる巨大なグトルフォスの滝など、「火と氷の国」を体感することができました。
さて、エネルギーについて言えば、一次エネルギー(自然から直接得られるエネルギー)利用のうち、再生可能エネルギーは85%で、そのうち65%は地熱、20%は水力です(2016年時点)※1。火山のマグマで加熱された蒸気でタービンを回して電力を得る地熱発電、そして、雨水や氷河の溶けた水を水源とする水力発電など、アイスランド特有のエネルギーを余すところなく利用している感があります。
グトルフォスの滝
ちなみに日本では、地熱、風力、太陽光を合わせた再生可能エネルギーの割合でも8.2%に留まります(2018年時点)※2。アイスランドのエネルギー利用は特別なものかもしれませんが、同じ火山国である日本にとっては、参考になることもあるのではないでしょうか。
※1:アイスランド政府ウェブサイト(英語)
https://www.government.is/topics/business-and-industry/energy/
※2:資源エネルギー庁「2020-日本が抱えているエネルギー問題(前編)」
https://www.enecho.meti.go.jp/about/special/johoteikyo/energyissue2020_1.html
こんにちは、JPF事業推進部/評価部のMです。
今回は、私が2015年から2017年の2年間滞在していたネパールについて紹介させていただきます。
ネパールの一般的な農村地域
世界最高峰のエベレストをはじめ、8,000メートル級の高峰が林立するヒマラヤ山脈を擁し、世界中の登山家の聖地として有名な国ですが、それ以外ではあまり馴染みがないかもしれません。
ネパールは人口約3,000万人、横に細長い長方形の国土(北海道の約2倍の面積)で、東・西・南の三方がインドに、北方が中国(チベット自治区)に接する内陸国であり、政治・経済・文化等あらゆる面で、大国インドから大きな影響を受けている国です。また、100以上の民族が混在する多民族・多言語・多文化国です。
日本ではあまり馴染みのないネパールですが、実は日本にはとても多くのネパール人が暮らしています。在留外国人の数を国別でみると、ネパールは実に6番目に多く(約10万人)(※1)、隣国の台湾やアメリカよりも高い順位であるというのは、あまり知られていないかもれません。
おそらく皆さんが最も多くネパール人と出会う場は、街のインド料理屋さんだと思います。インド料理を提供するレストランで働いている人の8~9割はネパール人です(筆者調べ)。また最近ではコンビニでネパール人の店員さんを見かけることも多くなりました。
ネパール人の多くは、日本をはじめ世界中で出稼ぎ労働者として働き、海外からの送金によってネパールにいる家族を養っています。出稼ぎ労働者からの海外送金はGDPの24.9%をも占め、主要産業である農林業(就労人口の約3分の2が農業に従事)の26.5%とほぼ同じ数字である(※2)というのは日本では考えられません。
これはひとえに、国内での働き口が限られており、また国内の労働では十分な賃金を得ることができないという社会状況に起因しています。私が通っていた村でも、久しぶりに訪問すると仲が良かった人が見当たらない、彼はどうしたの?と聞くとドバイに出稼ぎに行った、奥さんと一緒に韓国に出稼ぎに行った、という話を聞くことがよくありました。しかもまだ小さな子どもを両親や親戚に預けてです。出稼ぎ先で言葉が通じないため、非常に危険で過酷な肉体労働に従事するしかなく、安全性が確保されていない工事現場で事故に遭い、多くのネパール人が亡くなった、というニュースも耳にします。
世界中から開発援助を受け、過去3年間は高いGDP成長率(18/19年度は6.8%を記録)を維持しているネパールですが(※2)、誰もが自らが望む場所と働き方で生活できる世界が実現されることを願わずにはいられません。
そして現在まで、2019年の同時爆破事件を除いて大きな事件は起きておらず、国として大きな借金はあるものの経済的な成長を続けています。その一方で、民族間の対立感情が高まりつつあるという話も聞こえてきます。
※1 e-Stat 在留外国人統計
※2 外務省南西アジア課 「最近のネパール情勢と日ネパール関係」
こんにちは、地域事業部の山崎です。
今回はスリランカについてです。広報担当に早く書けと立ち食いソバ屋でもせっつかれ、滞在していたときの古い記憶を呼び起こして、何とか書きました。でも、褒めてすらくれません(涙)。
さて、日本ではあまり馴染み深くないかもしれないスリランカですが、スリランカ産の紅茶、いわゆるセイロンティーを飲んだことのある方は多いと思います。日本で市販されているスリランカの紅茶を原料とした商品を飲むと、個人的には甘めに感じますが、現地スリランカや、インド、その他の南アジアで飲む紅茶は、比べ物にならないくらい甘く、紅茶を淹れているのを見たら、それだけで糖尿の不安に駆られます。。。
カレー好きの人にとっては、スリランカカレーなんかはお馴染みかもしれません。詳しい人は鰹節(モルジブ・フィッシュ)入れるんでしょ?となるかもしれません。世界で一番辛いカレーと紹介されたりもします。確かにチキン、マトンなど肉系のカレーは辛いです。甘―い紅茶とは打って変わって、こちらは辛ければ辛いほど美味しいという感覚です!!!
それから、とにかく料理にココナツオイルを使いまくります。ココナツオイルを取り上げたら、多分3日と生きられないのではないかと思ってしまうほどです???
その他にも宝石の国(ダイヤモンド、エメラルド以外)であるとか、最近では日本でもテレビ、雑誌でスリランカのビーチリゾートやアユルベーダ(伝統医療)を紹介しているのを目にする機会もあるので関心のある方も増えているかもしれません。建築物に関心のある方にとってはジェフリーバワのホテルなどがあるとか、SFが好きな人にとってはアーサー・C・クラークが長らく住んでいたとか。
人口2,000万人、国土は北海道の8割程度の広さですが、人種で言えばシンハラ、スリランカタミル、インドタミル、ムスリム(バーガー)。宗教では仏教徒、ヒンズー教徒、キリスト教徒、イスラム教徒など色々な人たちがいます。小さめの町では仏教寺院、ヒンディー寺院、教会、モスクがごく近くに建っていたりします。
そんなスリランカですが、長らく内戦状態にあったということをご存知の方もいるかと思います。イギリスから独立後、多数派のシンハラ人への優遇政策が取られ民族間対立が高まっていく中、1983年に内戦状態に陥り、その後、数回の停戦と破棄が2009年まで続きました。政府と反政府武装勢力の戦闘だけでなく、極右勢力の襲撃事件、反政府武装勢力内での分裂、それらの出来事に伴う抗議行動のハルタル(ゼネスト)、爆弾テロなどでスリランカの北部から東部を中心に大きなダメージを残しました。
内戦終結までの間に日本からいくつものNGO、支援機関、開発コンサルなど多くの組織が支援活動を行い、JPFも、激戦となった内戦の最終期から復興の入り口までのおよそ3年間、国内避難民、帰還民支援を実施してきました。
そして現在まで、2019年の同時爆破事件を除いて大きな事件は起きておらず、国として大きな借金はあるものの経済的な成長を続けています。その一方で、民族間の対立感情が高まりつつあるという話も聞こえてきます。
停戦中、あるNGOが実施していた地雷除去事業の現地人スタッフは、いくら除去しても除去しても、内戦は止まずまた地雷が埋められるから、ムダなことをしているようだと言っていました。
そういった時代に戻ることなく、多様性に富んだ人たちが平和に共存できる国になれば良いなと思います。
こんにちは、JPF事業推進部のおかわりです。
パレスチナで印象に残った言葉、前回からのつづきです。
――「不自由よ、とっても。でももう、そのことについて考えるのをやめたの」
当時、私と同い年の23歳の女性が言った言葉です。
検問所に並ぶパレスチナの人々
ヨルダン川西岸地区に住む人々は、自分の好きなようにパレスチナから出たり、入ったりすることができません。地区を囲むように分離壁があり、パレスチナを出入りするときは、壁の検問所を管理するイスラエルの許可が必要となります。病院に行くときも、お祈りに行くときも、出勤するときも、もし壁を超えたいならば何時間も列に並び、許可を待ちます。
イスラエル側に入り、西に進み続ければ、やがて海に行き着きますが、西岸地区には、海を見たことのないパレスチナ人もたくさんいます。海のない、5,655平方キロメートル(三重県と同じくらい)の地区から出られないパレスチナ人がたくさんいるのです。
暗い話ですが、漠然とニュースで見るよりも、現地の人の生の声を聴く方がパレスチナの人々を身近に感じてもらえるのではないでしょうか。
単なる遠い国の知らない人たちの話ととらえると「かわいそう」で終わってしまうかもしれません。よかったら、パレスチナの人々の言葉を、自分の家族や友人が言っていたら、と自分側に引き寄せて考えてみてください。
パレスチナ問題について
https://ccp-ngo.jp/palestine/
こんにちは、JPF事業推進部のおかわりです。
皆さんは、パレスチナ・イスラエル問題をご存知でしょうか。
長く複雑な問題なのでここでは詳細を述べませんが、パレスチナ人とイスラエル人が、パレスチナの地を巡って対立している問題です。1967年にヨルダン川西岸地区とガザ地区がイスラエルに占領され、現在、パレスチナ人は、両地区の一部において自治政府という単位で、自治を行っている状況です。
パレスチナの風景
「パレスチナ人だから」と差別され、教育や健康、就労の機会などすべてにおいて不平等な環境で生きる彼ら。2年前、私がパレスチナに住んでいて印象に残った言葉をいくつかご紹介いたします。
――「将来の夢なんて聞かないで。ここには夢なんてないのだから」
ヨルダン川西岸地区にあるパレスチナ難民キャンプのひとつを訪れたときでした。
ここでの生活は?学校には行っているの?と生活に関する調査をしていた時、「将来の夢は?」と子どもたちに声をかけた私に、若いお母さんが笑いながら言った言葉です。「ここでは学校で勉強してもいい仕事につけないの。ここからも出られないの。だからもうそういうことは考えないの」
“天井のない監獄”といわれるガザ地区で、人々が希望を持てない生活を送っているのは知っていました。でも、パレスチナの他の地区でもそうであったというのは、自分の想像を上回る現状でした。自分の子どもたちは夢を持てないから、と笑って言わなければいけないお母さんの気持ちを、きっと私たちは想像しきれません。(つづく)
パレスチナ問題について
https://ccp-ngo.jp/palestine/
こんにちは、広報部の高杉です。
スタッフが国内外のSDGs体験をお伝えするこの企画、今回はSDGs14「海の豊かさを守ろう」、15「陸の豊かさも守ろう」、そしてSDGs4「質の高い教育をみんなに」に関連するお話です。
コロナが日本でもニュースになり始めた2月、団体予約が相次ぎキャンセルしてしまったという、宮城県石巻市雄勝町のモリウミアスへ行ってきました。
モリ、ウミ、アス(森、海、明日)?
モリウミアスは、東日本大震災によって町の8割が壊滅し、人口も1/4以下の1000人以下に減ってしまった雄勝町の高台に残る築93年の廃校が生まれ変わった、子どものための複合体験施設。豊かな森と海に囲まれた環境に子どもたちが宿泊できるこの施設は、5,000名ものボランティアと地元の人々の手によって2015年に完成。2017年には、大人も泊まれるアネックスも誕生しました。
雄勝の海が見える高台に着くと、ヤギのベリンダが迎えてくれます。建物の裏には豚小屋もあって、人間より大きな豚のラバーはスタッフと仲良し。目の前の素敵な木造建物は、東京駅舎と同じ雄勝硯の屋根を持つ旧桑浜小学校を、建築家の隈研吾さんやその学生など世界中の建築学生が考えデザインして再生したもの。旧校舎をいかした建物が本当にかっこいいのです。
スタッフと仲良しの豚のラバー。顔が笑っている。
地元の漁業や農業など、第一次産業を生業とする人々の暮らしをもとにした体験プログラムで大切にしていることは、サスティナブルな考え方で循環する暮らしや、多様性との出会い。
例えば、使う生活排水の一部は、生き物と植物が育つ環境をつくる自然浄化装置バイオジオフィルターでろ過され、子どもたちが稲作を行う水田に流れ込んで再利用されます。私が行ったときには、裏山の木を木こりのようにみんなで間引き伐採体験!自分たちが宿泊する施設の暖房用に利用し、部屋がほんわかとした温かさで満たされます。
木こり体験をした高台から望む雄勝の海
子どもたちは、畑で野菜を作ったり、豚の飼育をしたり、裏山の美味しい天然水を引いた水道のある屋外キッチンで料理をしたり、露天風呂で薪をくべたり、地元の漁師さんと漁に出たりと、大自然を思いっきり楽しみながらの学びがモリウミアスの大切にしているものです。
滞在中、地元素材を活かしたご飯が美味しくて、美味しくて、美味しくて。リアス式海岸の雄勝湾はウニ・ホタテ・ホヤ・銀鮭の養殖が盛ん。地元野菜はもちろん、四季折々の海の幸をまさに旬の時期に味わうことができます。
コロナ禍に立ち上げられたクラウドファンディングは、目標金額を大きく上回る2倍額を達成。「子ども達にモリウミアスが普段提供している学びをオンラインで実施すること」「販路の減少に苦しむ地元漁師さんの新鮮な食材を届けること」を目的に、漁師の皆さんや子どもたちと考えたというリターンがまた最高。たとえば雄勝産銀鮭が丸ごと届き、モリウミアスのスタッフが調理方法をライブ動画配信しながら一緒にさばく料理プログラムなど、あっという間に申し込みがいっぱいに。私はこの場所が永続してほしいとまずはノーリターンでファンディングしましたが、大好きな殻付き生ウニを見て我慢できずに、再ファンディングしてしまいました。まだ動いている、めちゃくちゃ新鮮なうに、届きました!
あのキッザニア創業メンバーでもある代表の油井元太郎さんはじめ、スタッフの皆さんがとても素敵です。花が咲く季節になったらまた行こう。皆さんもぜひ。
モリウミアス:http://moriumius.jp/
広報部の坪井です。
今回は、SDG7「エネルギーをみんなに そしてクリーンに」関連するお話しです。
以前にスロバキアの電力事情について書きましたが、スロバキアやルーマニアにいた時には、EU全体のエネルギー政策の中でも、特に天然ガスの供給元の多様化に関心を持っていました。EUでは、ロシア産ガスへの依存度が高く、エネルギー安全保障の観点からも不安視されています。実際、ロシア-ウクライナ間の諍いにより、EUに繋がるウクライナのパイプラインへの供給が停止され、EUにおいてガスが不足する事態に陥ったこともありました。
ロシアからバルト海底を通って、ドイツへとガスを運ぶノルド・ストリームというパイプラインもあり、現在、その拡張も進められていますが、結局、ロシア産ガスへの依存度を高めることとなり、ドイツ以外のEU諸国からは懸念の声が聞こえています。
そのような中で、ロシア産以外の供給元としてEUが期待しているのが、アゼルバイジャンがカスピ海で開発を進めているシャーデニズⅡガス田です。では、どのようなルートでEUまでガスを運ぶのでしょうか。
カスピ海に面したアゼルバイジャンの首都バクー
アゼルバイジャンとしては、友好国であり、EUと国境を接するトルコにいち早く運びたいところですが、その間に位置するアルメニアとはナゴルノ・カラバフ地域を巡って対立していることから、パイプラインも封鎖されています。また、そもそもアルメニアとトルコには外交関係もなく、国境自体がトルコ側によって封鎖されています。そのため、現在、アゼルバイジャンのカスピ海産天然ガスは、アルメニアの北側に位置するジョージアのパイプラインを経由してトルコへ、そして、同国内のトランスアナトリア・パイプライン(TANAP)を通じて、ギリシャへと輸送されています(下図の赤いルート)。
ところで、アゼルバイジャンからジョージアへのガス輸送の関係では、ジョージアの黒海沿岸の都市であるバトゥミにおいて、ガスを液化天然ガス(LNG)へと変えて、そこからLNG輸送船で黒海の対岸にあたるルーマニアへと運ぶAGRIというプロジェクトもあります。面白そうだと思いましたが、ルーマニア側の黒海沿岸都市にはLNG基地もなく、今のところ実現の目途は立っていないようです(下図の青いルート)。
EUとしては、域内全体へのガスの安定供給を図りたいところですが、EUの中には、ガスの確保に加えて、輸送によって得られるトランジット料金を重視する国もあり、自国のパイプラインの拡張、他国との連結を目指した複数のプロジェクトが、それぞれの優位性を主張し合う状況となっています。「誰一人取り残さない」よりも「自国が取り残されない」ことに執心しているというのが実情のように思えます。
写真はバリ島・テガラランのライステラス
こんにちは!事業管理部の川戸です。今回は、知る人ぞ知るサステナブルな学校、「グリーンスクール」を紹介したいと思います。
グリーンスクールは、2008年にインドネシア・バリ島に開校したインターナショナル・スクールです。長年バリ島でジュエリー・ビジネスを手掛けていたハーディ夫妻(カナダ出身ジョンさん&アメリカ出身シンシアさん)が、環境問題に強い危機感を抱き、“持続可能な世界を創る未来のリーダーを育てる”ために、私財を投じて創立し、運営は、非営利団体が行っています。
グリーンスクールは、バリ島のデンパサール空港から車で1時間半、バリ島文化の中心地であるウブドから少し離れたジャングルの中にあります。校舎は、バリ島で育った大きな竹でつくられており、壁がないため、自然光や風が通る、オープンな空間が広がっています。
生活の基本は、IRESPECT。Integrity(誠実さ)、Responsibility(責任感)、Empathy(共感)、Sustainability(持続可能性)、Peace(平和)、Equality(平等)、Community(コミュニティ)、Trust(信頼)の8つで、これらが記された看板が学校のさまざまな場所に設置されています。物事を考えるときは、環境、経済、社会、幸福の4つが全方向にサステナブルかどうかが基本となっています。
グリーンスクールでは、ソーラーパネルや水力発電から60%の電力を賄ったり、ごみを21種類に分けて資源の再生を行ったり、使用済みのパームオイルをバイオディーゼル燃料に変えて利用したり、PCやタブレットを導入してペーパーレスを徹底したり、排泄物を肥料にして畑で育てた野菜を食べたり、環境負荷の高い肉は食べなかったり・・・。生徒たちは、資源が循環する仕組みを、日常生活を通じて学び、さらに、アイデアを出し合って進化をさせています。
2008年の開校当時は90名だった生徒数は、12年を経て、いまでは800人を超えているそうです。うち、日本人はどれくらいいると思いますか。なんと10%を占めています。また、2020年にはニュージーランドと南アフリカに、2021年にはメキシコに、姉妹校の開校が予定されており、将来的には世界50か国での開校を目指しているそうです。日本に姉妹校が開校する日も近いのかもしれませんね。
余談になりますが、個人的に素晴らしいと感じたのは、グリーンスクールのファンドレイジング力です。世界各国で、TEDをはじめとするイベントでプレゼンテーションを行い、グリーンスクールのファンを増やし、世界中から多額の寄付金を集めるのみならず、世界中から優秀な教師を集めることに成功しています。学校見学を希望する人も後を絶たず、有料の見学ツアーであるにもかかわらず、コロナ禍以前は毎日100名もの人が参加していたそうです。同じ非営利団体として、ジャパン・プラットフォームが参考にできる点はたくさんあると感じました。
中学2年生になるこどもを持つわたしは、まさに“持続可能な世界を創る未来のリーダーを育てる”ために、あれこれ実践しています。当然、グリーンスクールにも惹かれています。コロナ禍が落ち着いたら、こどもといっしょに訪れてみたいと思っています。
グリーンスクール:https://www.greenschool.org/
こんにちは。JPF管理部の斎藤です。
前回、セネガルの世界遺産である、貝殻で出来た島のジョアル・ファディユ島(以下ファディユ島)についてご紹介しましたが、今回も同じくファディユ島から、主要な産業の一つである牡蠣産業について「1 貧困をなくそう」「5 ジェンダー平等を実現しよう」という観点からご紹介したいと思います。
ファディユ島では、牡蠣産業を含め、漁業が盛んです。また、その他、観光業による収入も大きくなっています。コロナ禍の前はフランスなどをはじめ、ヨーロッパ各地から観光客が訪れていました。
ファディユ島はこのようなマングローブの中に
ファディユ島で採れる貝には様々な種類がありますが、中でも首都ダカールで流通する牡蠣は、輸入を除くとほとんどがこの島で採れるものだそうです。牡蠣はマングローブの根本につくのですが、ナイフで手を切るなどして危険な作業のため、主に貧しい女性が従事する職業となっています。この島出身の私の同僚は、早くにお父さんを亡くしましたが、お母さんがこの牡蠣をとる労働をして一家を支え、子どもたちを養い、学校に送り出していたそうです。
マングローブの根本に牡蠣が
マングローブに囲まれた豊かな自然を生かし、貝殻で島を築くなど、長い年月に渡って自然と共存してきた先人たちと、それを現在も持続させている人々に尊敬の念を抱く一方、この島に存在する貧困の問題やジェンダーの問題の存在にも留意する必要があると思っています。
こんにちは。JPF管理部の斎藤です。
以前、赴任していたセネガルという国、その中でもジョアル・ファディユ島という世界遺産の場所を島の特徴を踏まえて、SDGs「14 海の豊かさも守ろう」「15 陸の豊かさも守ろう」「11 住み続けられる街づくりを」という観点から、ご紹介したいと思います。
まず、セネガルという国ですが、皆様の中には2018年のサッカーワールドカップで対戦し、引き分けたことで印象に残っている方もいらっしゃるかもしれません。セネガルは西アフリカにある、人口1585万人の、面積が日本の約半分ほどの大きさの国です。宗教はイスラム教徒が大半で、キリスト教(特にカトリック)や伝統宗教なども信仰されています。海と面しているため、海の幸が豊富に取れる他、農業では落花生の生産量が多くなっており、近年ではモーリタニア沖合の石油・ガス油田の開発も期待されています。
ご紹介するジョアル・ファディユ島は、首都のダカールから車で2時間半ほど南に下ったマングローブ林の一角にあります。この島は、何世紀にも渡って、人々が貝を食べ、その貝殻を決まった場所に捨ててきたことによって出来上がりました。このような特徴の島はこの付近に7つありますが、現在、人が住んでいるのは、このファディユ島だけとなっています。
長い歴史の中で、海で採れた貝で島を築きあげた人々は、海の豊かさを十分に生かし、大切にしながら、陸となった島の豊かさも守り、住み続けられる街づくりをしてきたという点で、本当に素晴らしいと思います。次回は、この島の産業の一つ、牡蠣産業についてご紹介したいと思います。(つづく)
JPF広報の坪井です。
前回は、原爆ドームの設計者がチェコ出身のヤン・レツェルであったことをご紹介しました。そのレツェルですが、日本を離れた後、1919年から、駐日チェコスロバキア(1918年建国)大使館の商務官として着任し、一度の帰任を挟んで、1923年まで日本に滞在していました。
そして、1923年9月1日に発生した関東大震災では、自身も被災し、その年の11月に帰国。その後、精神疾患などに陥り、1925年に45歳で亡くなりました。レツェルの精神疾患のはっきりとした理由はわかりませんが、自国では経験しようのない大地震で被災者となったことは、その原因の一つであったかもしれません。レツェルの時代よりも多くの外国人が暮らす現代の日本では、災害時の在留外国人のケアは、さらに重要な課題となります。外国人も含めて、誰一人取り残されることのないように、災害への対応力(レジリエンス)を高めていく必要があります。
ところで、私のチェコ留学については、以前のチェコ編でお話ししましたが、プラハでの留学生活は、凡ミスから始まりました。プラハに到着してすぐに学生寮に入るつもりでしたが、チェコの祝日で手続きができず、慌てて宿を探すことに。ガイドブックを頼りに、なんとかGrand Hotel Evropaというホテルを見つけました。古めかしいけど趣のあるホテルでしたが、入り口部分の設計者の一人として、レツェルが加わっていたことを、今回初めて知りました。
レツェルが日本で手掛けた建築は、原爆ドームと聖心女子学院の正門以外、震災、火災などによって、ことごとく失われてしまったようですが、世界中の人々で賑わうプラハの観光地の中に、レツェル所縁の建物が現存しているというのは、少し救われた気持ちにもなります。
プラハのヴァーツラフ広場(Grand Hotel Evropaは矢印の場所)
JPF広報の坪井です。
以前にチェコについて紹介した際には、あまり知られていないチェコ生まれの人物(2020年7月20日の記事)やチェコ所縁の日本人(2020年7月22日の記事)を取り上げましたが、今回は、日本に所縁のあるチェコ人にまつわる話しです。
さて、ヒロシマと言うと、何が思い浮かびますか?野球好きな人であればカープ、サッカー好きであればサンフレッチェ(ちなみに同クラブの初代監督ハシェク氏はチェコ出身)かもしれませんが、ここで取り上げるのは「原爆ドーム」(広島県産業奨励館)です。
原爆ドームは、曲面が多く使われ、正面上部に楕円形ドームが載せられた分離派(セセッション)様式と呼ばれる装飾のあるヨーロッパ風の建築ですが、その設計者がチェコ人建築家のヤン・レツェル(Jan Letzel)です。1907年に来日したレツェルは横浜を拠点として活動し、1915年に日本を離れるまでに、大学やホテルなどの建造物の設計に携わりました。
正面部分などが奇跡的に倒壊を免れ、現在も、核兵器の廃絶と恒久平和を訴えるためのシンボルとなっている原爆ドームですが、欧州各地にある同じ様式の建物を見ると、原爆ドームが産業奨励館であった頃の姿が何となく想像されます(ウィーンの建物のように金ピカではありませんでしたが)。ところで、あらためてレツェルについて調べてみると、原爆ドームの設計以外でのレツェルの日本体験を知ることとなりました(つづく)。
こんにちは、JPF事業管理部の越川です。前職時に5年間、フィリピンに駐在していたのですが、今回はフィリピンの観光名所「ボラカイ島」について紹介します。
ボラカイ島は、首都マニラから南に200km、真っ青な海に囲まれた南北7km、東西2kmの細長い島です。西海岸には4kmにわたって白砂ビーチが延び、見た目そのままホワイト・ビーチと呼ばれています。2012年には、アメリカの旅行雑誌『トラベル+レジャー』によって世界最高の島と評価されました。ビーチ沿いには数多くのリゾートホテルが並んでいて、レストランやバーも集まるアジアンリゾートらしい雰囲気。私も初めての出張時にその美しさに魅了され、その後、家族や友人たちと何度も訪れました。
ボラカイ島の美しい砂浜
さて、フィリピンにとっても貴重な観光収入源でもあるこのボラカイ島ですが、観光客は2012年45万人⇒2013年140万人⇒2017年200万人以上となり、その観光収入は600億ペソ(約1,320億円)まで拡大していました。そこで懸念されるのが、増え続ける観光客に対応するための自然破壊や環境汚染。ホテル・飲食店の建設に伴い、海は汚染されて砂浜も白さを失ってしまいました。一部の施設が禁止区域に建てられたため、藻の大量発生なども招いたと言われています。過激な言動でも知られるフィリピンのドゥテルテ大統領は当時「ボラカイは汚水溜めになってしまった」と発言しています。
これに対応するために、ドゥテルテ大統領は、島を元の美しい状態に戻すため島の閉鎖を決断し、最大半年間、観光客の立ち入りを禁止にしました。これは相当厳しい決断だったに違いありません。島の観光産業で働くおよそ45,000人が職を失い、更には700億円近くの経済損失が推定され、多くの人々が閉鎖に反対したそうです。まさに、島の持続的発展を実現させるため、目先の利益を犠牲にせざるを得なかった苦渋の決断だったに違いありません。
結果的に島は半年間閉鎖され、その間に違法に建築された200軒以上のホテルや飲食店が取り壊され、今後受け入れる観光客の数を制限し、島の生態系を維持するための厳しい規制を新たに設けて、改めて観光客の受け入れを再開しました。島の再開を記念する式典にて、当時の観光大臣は、美しさを取り戻したボラカイを訪れた人々に向けて次のように呼びかけました。「この島を私たちの家と思って大切にしよう。きれいで手つかずのまま守ろう。ビーチでの飲酒や喫煙、ゴミ捨ては厳禁だ」。
島の再開後にホテルや飲食店等に掲示された観光客への啓蒙ポスター
環境と経済の両立が如何に難しいかを、このボラカイの件は我々に問いかけていると思います。ですが、それが実現されなければ美しい島も地球も守れません。一人ひとりが意識することが、持続可能な社会への第一歩と、改めてボラカイが教えてくれました。
こんにちは、JPF事業推進部のおかわりです!
カメルーンに行く前は、「途上国の子どもたちは毎日何時間も水を汲みに行っているんだよ」という言葉を聞いても漠然と「大変そうだなあ」としか感じませんでした。「蛇口をひねって水が出るのは当たり前じゃないんだよ」と聞いても同じで、「そうなのかぁ」と思うだけ。正直そんな生活が『遠すぎて』、イメージはしにくいままでした。
しかし、実際に協力隊員としてカメルーン・西部州バントゥムのインフラの整っていない村に住み、自分自身で井戸汲み生活をしたことで、水を汲みに1日数時間歩くことの大変さを、身をもって想像できるようになりました。
水を汲む村人
私の住んでいた村には水道が通っていなかったので、使う水は井戸か川に汲みにいかなければなりません。私の家から井戸までは、5分ちょっと。5分かぁ、そんなに大変な距離じゃないな、と思っていたのは私の勘違いで、20リットルの水を抱え、舗装されていないでこぼこの道を歩いて井戸と家を2往復することの大変さと言ったら・・・!
そんなわけで、私のカメルーンでの生活は「いかに水を使わないで済ませるか」という方にシフトしました。まずは朝、顔を洗った水は捨てずに、野菜を洗う水に回します。さらにその水を使ってお鍋や包丁を洗い、水が茶色になってからトイレを流す水に使います(水を流すのには1回10リットル必要なので、1日1回にまとめて流していました)。お風呂に入る時もぎりぎりまで節水したいので、髪は長いままでしたが7リットルで全身を洗っていました。
それもこれも、すべては井戸に水を汲みに行くのが本当に大変だったため。たった5分の距離でもあんなに骨の折れる仕事だったのだから、「毎日」「数時間」水を運ばなければいけない子どもたちの苦労を考えると頭が下がります。
水を運ぶ子どもたち
水不足は、トイレを流せない、トイレ後に手を洗えない、というふうに、衛生面にも大きく影響します。「安全な水とトイレを世界中に」。これは本当に大事で達成すべき目標だと、身をもって感じた経験でした。
自宅の軒下の機織り機でロンジーを織る女性(ミャンマー・ラカイン州)
こんにちは、JPF事業評価部のSです。
今回はミャンマーの民族衣装ロンジーをSDG8「働きがいも 経済成長も」の視点からご紹介したいと思います。
ミャンマーは、北は中国、インド、東はラオス、タイ、西はバングラデシュと国境を接し、日本のおよそ2倍の国土に約5100万の人々が暮らす国です。民族衣装である筒型の腰巻きロンジーは、男女ともに正装として、また普段着としてもミャンマーの人々の生活に溶け込んでいます。色や柄は多様で、民族ごとに伝統的な独自のデザインがあるとされ、130を超える民族の多様さ、文化の豊かさをロンジーの柄一つからも感じることができます。
ロンジーを織るのは主に女性たちの仕事です。美しい柄の一方で、仲買人システムによる低賃金、限られた販売先、後継者不足、整っていない労働環境など課題も多くあります。
2015年の調査(※1)では男性の経済参加80.2%に対し、女性は51.6%と大きな差があり、女性の経済参加がまだまだ進んでいない現状が明らかになりました。ミャンマーでは2018年に国際労働機関(ILO)とディーセントワーク(働きがいのある人間らしい仕事)国別計画(DWCP)の実施に関する覚書を交わし、2021年までの計画で取り組みを進めています(※2)。
※1:Myanmar Labour Force, Child Labour and School-to-work transition survey
※2:https://www.ilo.org/yangon/publications/WCMS_645042/lang--en/index.htm
女性が多く従事する機織りや縫製産業でも取り組みが進み、それぞれの民族の伝統的なロンジーがこの先も受け継がれていってほしいと思います。
JPF事業管理部の古田中です。
今回は、私が幼少期を過ごしたカナダ・トロントについて紹介します。
トロントには世界中から集まった移民が多くおり、お互いの出身地域の文化を尊重しあい生活ができていることから「人種のモザイク」と呼ばれることがあります。背景には歴史的な要因やその過程でとられてきた政策が影響しているそうですが、難しいことは分からない小学生の私でも、多種多様なバックグランドを持つ友人たちと過ごす学校生活を通して学ぶことは多くありました。
この業界で働き始めたきっかけも、様々な文化を理解し、互いに成長しあいたいと感じた幼少期の体験が少なからず関係しています。
▼多文化主義と多国間主義の国、カナダ<外務省HP 2009年>
https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol38/index.html
近年では、難民受け入れにおいても、政府だけに頼るのではなく、官民連携による受け入れプログラムや民間主導での受け入れも実施している点で国際的に注目されています。この制度が実現できるのも、カナダには、生活の中で多様な文化を受け入れる土壌があるからなのではと感じています。
▼カナダの民間難民受け入れ(プライベート・スポンサーシップ)に学ぶ
<難民支援協会活動レポート>
https://www.refugee.or.jp/jar/report/2016/10/18-0000.shtml
コロナ禍の昨今、人の移動も制限され、意識しなければ他者に対して排他的になってしまいそうですが、このような時期だからこそ、自分とは違う文化や価値観を認め、共存していく新しい生活様式を考えていきたいですね!
こんにちは!事業管理部の川戸です。前回に続いて、ポートランドの街をリポートします。
今回滞在したのは、ダウンタウンにあるポートランドのアイコン、エースホテル。築100年弱の古いホテルをリノベーションしたホテルです。ロビー階には、ポートランド発祥のスタンプタウン・コーヒー・ロースターズの店舗があり、ロビーラウンジでは、宿泊客のみならず、地元の人たちがコーヒーを片手におしゃべりを楽しむ姿が見られ、憩いの場となっていました。
ちなみに、客室は、ポートランド発祥のペンドルトンのブランケットがベッドカバーに使われていたり、ポートランドのアーティストの作品が置かれていたりと、ポートランドを体感できる空間になっていました。
地元の人々の生活に欠かせないのが、ポートランド発祥のスーパー、ニューシーズンズ・マーケットです。ポートランドでは、「ニューシーズンズ・マーケットができるエリアは、地価が上がる」と言われているそうです。なぜだと思いますか?ニューシーズンズ・マーケットでは、地産地消への積極的な取り組みや、ポートランド発祥のメーカーとのオリジナル商品の開発といったことに加え、利益の10%を地元の非営利団体に寄付しています。さらに、マイバッグを持参したお客さんには、代金から5セントの値引きを受けるか、もしくは、その5セントを地元の非営利団体に寄付するかを、自分の意思で選択できる仕組みを設けています。こうしたお客さんも巻き込んでコミュニティに貢献する姿勢が、地元の人々に支持されているのです。
ポートランドを訪れて驚いたのは、いわゆる大手チェーン店が少ないことです。スターバックス・コーヒーやホールフーズ・マーケットもあります。でも、目立ちません。クラフトビールを楽しめるカフェ・バーやサードウェーブ・コーヒーショップ、あちこちで開催されるファーマーズ・マーケットに出店しているさまざまなお店、街の広場に集まっているキッチンカーなど、大小さまざまなローカルビジネスがたくさん存在しているのです。ポートランドのランドマークである世界最大の独立系書店、パウエルズ・ブックは、その代表例と言えるでしょう。
地元の人々に愛される街、ポートランド。個を大事にするダイバーシティ&インクルージョンと、地域を大事にするローカルファーストの考えは、一見相反するように見えます。でも、自分らしく生きたい、自分のこだわりを大事にしたい、といった意思を持つ人は、他者のそういった意思も受け入れ、尊重することができるのでしょう。そして、そこから共感やつながりといったものが芽生え、強固なコミュニティへと発展していくのでしょう。また、ポートランドへの評価は、ナイキ、インテル、アディダスなどが、本社や北米本社を構えていることからも、わかります。
ほんの数日間の滞在でしたが、ポートランドは、わたしや息子の生き方にも、少なからず影響を与えてくれました。
こんにちは!事業管理部の川戸です。
みなさん、ポートランドを、ご存じですか。アメリカ西海岸・オレゴン州にある「全米で住みたい街No.1」として知られている街です。ポートランドの魅力がどこにあるのか、実際に自分の目で確かめたくて、昨年の夏に息子と訪れてみました。
まず惹かれたのが、ポートランドのスローガン 「Keep Portland Weird」(ポートランド、ヘンテコのままでいようよ)。「川戸さんって、変わっているよね」と言われると嬉しくなってしまうわたしは、このスローガンを知って、心が躍りました。
ポートランドは、北海道・札幌市の人口と面積をそのまま3分の1にしたくらいのコンパクトな街です。1ブロックの距離は60メートルと、アメリカの他の街と比べて半分の長さで、とても歩きやすく、また、ライトレールやバス、ストリートカーと呼ばれる路面電車が走り、自転車ルートも整備されていて、公共交通機関が充実しています。
ストリートカーに乗ると目に入るのが、「人種、宗教、出身地、性的指向、ジェンダー、能力にかかわらず、すべての人を歓迎します」というメッセージ。正論です。でも、それを当たり前に実行しているところが、ポートランドがWeirdである所以なのではないかと思いました。
街角には、アコーディオンを演奏する人、ギターを演奏しながら歌う人、アカペラで歌う人がいて、ブロックごとにさまざまな音楽が鳴り響いています。
そして、街のあらゆるところに、ストリートアートが。
ポートランドに対して、自分らしく生きられる街、自分のこだわりを大切にできる街、といったイメージが膨らんでいきました。
(つづく)
ホンジュラスの子どもたち
こんにちは!JPF助成事業推進部の進藤です。今回は、ホンジュラスの子どもの現状について、少し見てみたいと思います。
ホンジュラスはメキシコやグアテマラの南方、パナマやコスタリカの北方にある中米の国です。あまり日本とは馴染みがないように感じられますが、気付かないうちにホンジュラス産のコーヒーやメロンを消費されている方々もいらっしゃるのではないかと思います。ホンジュラスの首都テグシガルパは、海抜1,000メートル程度に位置し、1年を通じて平均気温が20度前後の非常に過ごしやすい気候で、「常春の地」と言われることもあります。
穏やかな気候とは対象的に、中南米は世界的に格差が大きい地域であり、貧富の格差から生じる犯罪も多いことから、様々な課題を抱えています。そのなかでも、ホンジュラスでは毎日、子ども1人が、暴力が原因で亡くなっていると言われ、紛争下にない人口約1,000万の国としては、驚異的な数字とされています。更に、こうした暴力から逃れるべく、おとなの同伴者なしに米国やメキシコなどに移民しようとする子どもが大量に生じており、社会問題となっています。
格差、貧困、暴力、教育の機会の欠如、更なる格差といった負の連鎖が生じ、近年では、おとなの同伴者のいない移民の子どもが十分な保護を受けられず、強制送還されているといった問題も指摘されています。格差の無い社会を目指すには、まず、格差がもたらす劣悪な環境で生きる子どもたちに目を向けて対策を講じていく必要があるように思います。
プラハ城下のマラーストラナ広場
JPF広報の坪井です。
(前回のつづき)
チェコ留学時代に訪ねた友人の故郷が、オスカー・シンドラーの出身地だったという話をしましたが、今回は、留学を終えて帰国し、仕事で再びプラハに戻ってからのことです。
ある日、現地の旅行会社で働く友人から、杉原千畝さんの足跡を訪ねるツアーにプラハが含まれていることを聞きました。リトアニアのカウナスにおいて、ユダヤ人のために2,000以上の査証を発給し、日本(東洋)のシンドラーとも言われる杉原さんが、プラハにいたことはまったく知りませんでした。調べてみると、カウナスの後、数か月ではありますが、プラハ総領事館(当時)に赴任されていました。
杉原さんが査証の発給を決断した理由、それは人道と博愛主義の精神だったそうです。平たく言えば、「困っている人を助ける」、「誰に対しても平等に」となるのでしょうか。それらはSDGsが掲げる「誰一人取り残さない」世界の根底にあるものと強く結びついているような気がします。
参考:杉原千畝記念館
http://www.sugihara-museum.jp/
さて、杉原さんのプラハ赴任のことを知った仕事時代も留学時代と変わらずチェコビールばかり飲んでいましたが、それでも当時は、いずれ人道支援のNGOで働きたいなと漠然と考えていました。それから約10年、随分と時間が経ちましたが、今、私はここ(JPF)にいます。
プラハ南東部のヴィシェフラットに建つ聖ペトル・聖パヴェル教会
JPF広報の坪井です。
(前回のつづき)
いきなり古い話になりますが、第二次大戦中、ナチスによるユダヤ人の絶滅政策に抗い、1,000人以上のユダヤ人の命を救ったとされるのが、スピルバーグ監督の映画でも知られるオスカー・シンドラーです。ちなみに、どこの出身かご存知でしょうか。。。
チェコの友人の実家のあるスヴィタヴィを訪れた2日目のことです。車で移動中、あらためて友人に何か観光名所はないのかと聞いてみましたが、やはり何もないという回答。しばし車窓から街を眺めていたところ、ホテル・シンドラーという看板が目に飛び込んできました。
ホテル名の由来を尋ねると、ユダヤ人を救ったことで有名なシンドラーはこの街の出身で(ドイツ系住民)、生家のあった場所もわかるとのこと。現地に連れて行ってもらうと、建物には、特にシンドラーの生家云々は示されていませんでしたが、向かいにある公園に五芒星の形がくりぬかれた石碑が建っていて、そこにシンドラーの功績が刻まれていました。なお、友人と一緒に前を通り過ぎた街の博物館には、シンドラーに関する常設展があったようですが、そのことは後年知りました。。。
スヴィタヴィ市立博物館
http://www.muzeum.svitavy.cz/stale-exp/oskar-schindler/213-2/
差別や迫害から多くの人命を救ったシンドラーとの偶然の邂逅。人道支援組織で働くことなどまったく頭の片隅にもなく、チェコビールばかり飲んでいた留学時代でしたが、色々と振り返ってみると、人道にも何かしら関わるような思い出や出来事が見つかるものですね(つづく)。
ヴルタヴァ河畔から望むプラハ城
JPF広報の坪井です。この連載もルーマニアから始まり、アジア、南米、アフリカと巡ってきましたが、今回は、私が留学と仕事で6年を過ごしたチェコでの話です。
留学時代のある週末、チェコの友人の実家にお邪魔することになりました。彼の実家は、プラハから東にバスで3時間のスヴィタヴィSvitavyという小さな街でした。到着後、市街地を散策したいと言ったのですが、何もないからと、車で数十分のポリチュカPolickaという街に連れていかれ、チェコの4大作曲家の1人であるボフスラフ・マルティヌーBohuslav Martinu(知っていますか?)の生家やお墓を回りました。
国際マルティヌー協会 日本支部
https://www.libusemusic.com/report.html
マルティヌーは故郷を離れてパリで学び、そして、第二次大戦の戦火を逃れて、アメリカへと渡り、その後、欧州に戻ったものの、共産党体制下の祖国に帰ることを断念し、生きて故郷の土を踏むことはありませんでした。遺灰となってポリチュカに帰ってきた彼の墓石には、作品の一節にある‘Jsem doma’(チェコ語で‘我、故郷にあり’の意味)が刻まれています。
戦争や政治体制の影響で、慣れ親しんだ国や地域に戻ることが叶わずに、異国の地で没した作曲家の想い、ひょっとすると国外に逃れ不安の中で暮らす難民と共通するものがあるかもしれません。望郷の想い、あるいは、平和を希求する想いが遂げられるように、暴力の防止や平和で包摂的な社会の実現に向けた取り組みが求められます(つづく)。
こんにちは、JPF助成事業推進部の井出です。歳を重ねると、「生まれて初めての経験」というのはあまり多くありませんが、以前、私が別のNGO団体に所属し、ケニアに赴任している際、生まれて初めて「蚊取り」を経験いたしましたので、その時の様子をお伝えいたします。
ご存じの方もいらっしゃると思いますが、ケニアのビクトリア湖周辺は、ケニア有数のマラリア発生地です。標高1,100Mですが、蒸し暑く、蚊が多い地域です。ここに、マラリアを研究している施設があり(当時、長崎大学熱帯医学研究所の先生がいらっしゃいました)、そちらを訪問した際、翌日早起きをして、蚊をわざわざ取りに行きました(笑)。
マラリアとは、マラリア病原虫が赤血球に寄生して起こる熱帯性の感染症であり、ハマダラカの媒介により感染します。寒気・震え・(40℃前後の)高熱が主症状で、発熱周期が一定し、48時間ごとに起こる三日熱マラリア・卵型マラリア、72時間ごとの四日熱マラリアと、周期が不規則で、心臓衰弱や脳症を起こして生命にかかわることもある熱帯熱マラリアの四つがあります。通常、蚊に刺されてから 10~14日の潜伏期を経て発病します。古くから人類を悩ました感染症で,熱帯では現在でも流行しており、エイズ、結核と並ぶ「三大感染症」と規定されています。世界保健機関は、世界中で患者は2億人おり、年間40万人以上が死亡していると報告しています(2018年)。
<マラリアの現状>
https://www.who.int/malaria/en/
<マラリアとは>
NIID国立感染症研究所
https://www.niid.go.jp/niid/ja/kansennohanashi/519-malaria.html
さて「蚊取り」について話を戻します。まず、早朝、蚊がいそうな地域に行き(主に湿地帯)、その地域に住むケニア人の方の家を訪問して(あらかじめ翌朝訪問を告げておき、鍵はかかっていないので、勝手に入ります。家の方は寝ています)、蚊を採取させていただきます。採取の方法は、懐中電灯を片手に、蚊を探し、下記写真のような機器を使って採取します。この機器は懐中電灯のような形をしており、蚊を吸い込む小型の掃除機のような(ファン付)もので、蚊を見つけたら吸い取り、中間にあるプラスチックの透明容器の中に蚊が入る仕組みです。
初めてでしたが、開始から20分で5匹ほど取れました。一緒に行ったケニア人のアシスタント君は、私の倍の10匹をいとも簡単に取っていました。まさにプロ技です。長崎大学の先生曰く、朝の蚊は、吸血しているのでもうこれ以上刺さないし、行動も鈍いので採取には最適なのだそうです。
この採取した蚊は、その後、研究室に運ばれ実験に使用されます(長崎大学の先生は、先日3000匹の蚊を採取し、分析器にかけたそうで、その後はしばらく蚊を見るのが嫌だったそうです)。マラリアはハマダラ蚊が媒体とはよく知られていますが、ハマダラ蚊にもいろいろ種類があり、最近、新しい種がでてきたと先生はおっしゃっていました。いまだ解明できていないことも多いので、今後も研究を継続するとのこと。こうした地道な「蚊の研究」のおかげで、マラリア予防薬・予防策が考案されているのですから、感謝しなければなりません。
今年もまた暑い夏がやってきます。
蚊の季節!!ぜひ、そんな研究者たちの地道な努力・活動のことを思い出してください。
フィンランドの冬景色
Moi!(フィンランド語で‘こんにちは’)
JPF広報部のYです。
私が大学4年間を過ごした北欧の国、フィンランド。
福祉が充実しており、教育の機会も全国民に与えられていて、持続可能な開発に関しては世界をリードしていると言われている国です。
一方でこれから解決していかなくてはならない課題もあります。ジェンダーの平等や生産と消費のバランス、そして肥満なども大きな問題となっているようです。さて今回は、自然豊かなフィンランドで日常生活にみられる環境に良い取り組み!を紹介します。
フィンランドは税金が高く外食はなかなかできなかったため(たまにマクドナルドに行くのがご褒美でした、マクドナルドも高いな~と思ったのを覚えています)、スーパーで食材を買ってくるのが日常でした。
今は日本でも多く見かけますが、フィンランドのスーパーにはペットボトル回収機があり、家で出たペットボトルやびんなどを入れるとスーパーでお金として使えるチケットが出てくる仕組みでした。
ボトルの大きさなどによっては高く買い取ってくれるため大きなボトルがあった時はラッキーという気分で、どのスーパーならペットボトル回収機があるか?という心配もなかったので積極的にリサイクルしようという気になりました。
スーパーの中でも、野菜や果物はパッケージに入っていなく、山積みにされている中から自分で欲しい分だけ袋に入れて買います。最後に会計するときのレジ袋は有料でしたので、いつもマイ買い物袋を持っていきました。
世界の他の国でもこういったシステムを取り入れているところは多いと思います。
日本も今月から全国でレジ袋が有料になりました。
今まであったシステムが変わるとちょっと戸惑いますが、最終的には私たちが将来も住み続けられるような地球のためだなあと思うと必要な変化なのだなと思います。環境にやさしいシステムをもっと取り入れていければいいなと思います。
参考
United Nations Sustainable Development Goals Knowledge Platform:
https://sustainabledevelopment.un.org/memberstates/finland
JPF地域事業部 福島担当の山中です。
(前回のつづき)
私は、ジョン・ペッソア州での活動の後、友人に連れて行ってもらいフォルタレーザ州の海洋先住民族であるトレメンべ族の地域に滞在しました。当時、このトレメンべ族の居住地域にあったヤシの木畑が、シャンプーや洗剤などの原材料として大量に伐採され続けていることに対し、トレメンベ族の自然と調和した暮らしと資源を守ろうという動きが活発化していました。同様の運動は世界的な広がりを見せ、現在のSDG14「海の豊かさを守ろう」、さらにSDG15「陸の豊かさを守ろう」に関わる企業や団体の取り組みにも繋がっていったと考えられます。
その後、私は中国の東北地方に派遣されることになりますが、このブラジルでの経験は、自分の中に、深く根付いています。私にブラジル行きを紹介してくださった石川裕之神父は、その後自らブラジルの北部カスタニャール地方に派遣され、2007年に日本への一時帰国からブラジルへと戻る途中のニューヨークで亡くなられましたが、つねに大自然に奉仕したいと仰っていたことが思い出されます。『紺碧の空と真っ赤な大地から』という著述が残っていますが、いつもブラジルの大自然から日本にメッセージを発信し、最後まで自然を愛し、守るための活動を続けていました。
福島の空の下、毎年美しく咲き誇る桜、川を遡上する鮭、飛来する白鳥や駆け回る馬、清流ではねる岩魚、そして、手付かずの原生林の新緑を目にすると、地球の裏側のブラジルで、自然にあこがれ、自然と調和した生き方を追い求めた神父のことが思い出されます。また、「海や陸の豊かさを守る」ことが、まさに現在の福島の課題や使命でもあるのだと説かれているような気がしてなりません。
ジョン・ベッソア州にて
JPF地域事業部 福島担当の山中です。私は大学卒業後、教員をしながら外国人労働者支援の団体でボランティアをしていましたが、教員を辞めて、1996年からはJLMMというカトリック系のNGOに入会し、大学時代からお世話になっていた石川裕之神父の紹介でブラジルに行くことになりました。石川神父も同団体のOBで、ブラジルやフィリピンで農業支援をされていました。特技は、豚と会話できることと言っていたのですが、フィリピンのプロジェクトで飼っていた豚がみんな逃げ出し、みんなで必死になって捕まえたというエピソードを聞かされたこともあります。
ブラジルでは、まず、パラナ州のサンヒエロニモという所で、ストリートチルドレンの識字教育や農業プロジェクトを行うウマニタスという施設で過ごしました。その後、友人の紹介で、ブラジルの中でも特に貧しいと言われるジョン・ペッソア州の、さらに最貧地域のサリン村にあるイエズス会の神学校にお世話になりました。
その頃のブラジル始め中南米では、貧しい人たちや弾圧された人たちのための活動も活発化していました。この神学校にも日本人の神父がいて、指導者として神学生たちを貧しい地域に派遣し、貧困をなくすためのコミュニティ支援を行っていました。私もここで寝泊まりし、神学生たちとファベイラ(貧民街)のコミュニティに足を運びました。
また、土地を持たない人々が、耕作放棄地などを開墾して、学校や病院まで建ててしまうセンテーハ(土地なし)農民運動が盛んな時期でもありました。ファベイラ、そして、センテーハ運動で開墾された地区への訪問、それはブラジルの貧困、そして、そこから何とか抜け出ようとする人々のある種の逞しさを実感する体験となりました。(つづく)
こんにちは!インドマニア歴32年、JPF事業管理部の川戸です。今回は、わたしが2014年と2019年にインドを訪れたときに参加したツアーを提供している、インドの旅行会社 “Reality Tours and Travel” と、その姉妹NGO “Reality Gives” の取り組みについて、紹介します。
旅行会社 “Reality Tours and Travel”(以下Tours) は、「インドを訪れる人に、スラムで生活する人々の現実を知ってもらい、それをファンドレイズにつなげることで、彼らの生活水準を向上させることが出来たら・・・」という想いのもと、2005年にインド第2の都市ムンバイに設立されました。
翌年には、ムンバイ最大のスラム「ダラビ地区」でウォーキングツアーを開始しました。初年度の参加者は367人にとどまりましたが、2007年にガイドブック「Lonely Planet」に掲載され、また、「ダラビ地区」が2008年に公開された映画「スラムドッグ$ミリオネア」の舞台になったことがきっかけで、参加者が大幅に増え、経営が軌道に乗りました。
2009年には姉妹NGO “Reality Gives”(以下Gives) を設立し、Toursで生じた利益を用いて、「ダラビ地区」の人々が英語やコンピューターのスキルを習得できるよう、教育プログラムを開講しました。やがて、ダラビで生まれ育った人が、教育を受けて、ツアーガイドとなり、収入を得て自立する・・・といった好循環が生まれました。
その後、Toursは、【See the Real India】 をコンセプトに掲げ、ツアーの種類を増やし、首都デリーにも拠点を設け、いまでは年間15,000人がツアーに参加するまでに成長しました。また、Givesは、これまでにダラビ地区の7,000人に教育プログラムを提供し、さらに同地区に小学校を開校し、毎年500人のこどもたちに高水準の教育を提供するまでに活動を広げました。
写真は、わたしがツアーに参加したときに撮影したものです。「参加することが支援につながり、さらに、自分の目で見たことをSNSで伝えることで、さらなる支援につながれば・・・」と思い、今回紹介いたしました。
なお、現在、インドでもCOVID-19の感染が広がっており、ツアーは全て中止、再開は未定という状況にあり、Givesでは寄付を募集しています。(わが家では、この取り組みを継続して欲しいという願いのもと、微力ながら支援させていただきました。)
Reality Tours and Travel:https://realitytoursandtravel.com/
Reality Gives:http://www.realitygives.org/
インド「旅することが支援につながる!」(Facebookで見る)
診療所でAFMETスタッフたちと
JPF地域事業部 福島担当の山中です。
(前回のつづき)
東ティモールにおけるプライマリ・ヘルス・ケア(PHC)プロジェクトは、当時の国連暫定統治機構や国の保健省にも認められ、国家プロジェクトになりました。そして、新たな医師を始めとする医療従事者の育成に際して、PHCの盛んなキューバに若者を留学させ、今では帰国した医師たちが自国の医療体制において、重要な役割を果たしています。また、私が駐在していた東部のラウテム県においても、PHCプロジェクトが定着し、誰もが健康的な生活を確保できる状態になっています。
ところで、日々、福島担当として現場に向き合う中、当時の東ティモールを思い返すと、現在の福島の避難指示解除地域を取り巻く環境と似ているような気がします。避難指示が解除されても、帰還する人と避難先で生活再建をする人など、元通りとはならず、地域の分断が生じていますが、特に懸念されているのは、医療従事者がいないため、まさにPHCやリフェラル(移送)システムが必要とされる状況となっていることです。
実際、子どもが体調を崩してもすぐに診てもらえる病院や診療所が近くになかったり、具合の悪くなった高齢者が一人で運転するのは危険なので、移住してきた若者に病院に連れて行ってもらったりという状況が続いています。また、調剤薬局等もありません。PHCの確立、そして、SDG3「すべての人に健康と福祉を」、これはまさに、地域や住民の方々の繋がりを回復させることが課題とされている、福島の避難指示解除地域においても求められるものではないでしょうか。
東ティモール(3)「プライマリ・ヘルス・ケアの今 ~東ティモールと福島~」(Facebookで見る)
JPF地域事業部 福島担当の山中です。
(前回のつづき)
JLMMとAFMETの緊急医療支援が入り、その後2000年には診療所とリフェラル(移送)センターが建設され、プライマリ・ヘルス・ケア(PHC)プロジェクトが始まりました。
当時、東ティモールでは、病院は3つだけ、医師などのエリート層はオーストラリアかインドネシアに避難しており、東ティモール人の医師は全国で二人だけでした。当初、AFMETは外部医療従事者による緊急医療を提供してきましたが、徐々に地元の資源を活かした、誰もが健康を手に入れられるような仕組み作りを開始しました。SDG3「すべての人に健康と福祉を」で目指す、健康的な生活の確保、福祉の推進です。
2001年、私はPHCプロジェクトのために、東部ラウテム県に入りました。ここは東ティモールの中でも辺境地で独立派のゲリラの拠点でもあったところです。プロジェクトでは、コミュニティ・ヘルス・ワーカー(CHW)を養成しました。CHWは予防教育を推進しながら応急処置にあたり、「そこから診療所に患者を連れて行く」、「診療所の医師に往診してもらう」、「さらに診療所でも診察できなければ病院に運ぶ」といった仕組みを作りました。また薬草園を作って活用したりもしました。
CHWの中には独立派の元ゲリラ兵がいたり、PHC拡大を目指す地域には、併合派(独立反対派)の地域もあったり、状況は複雑でした。2002年には、真実和解委員会というものが発足し和解のプロセスが重要な課題となりました。(つづく)
東ティモール(2)「プライマリ・ヘルス・ケアの拡大」(Facebookで見る)
JPF地域事業部 福島担当の山中です。私は主にアジア・太平洋地域にボランティアを派遣しているJLMMという団体を通じて、1997年から2000年まで中国の東北地方に駐在後、2001年からはJLMMのOB派遣として、東ティモール(※)のAFMET(東ティモール医療友の会)でプライマリ・ヘルス・ケア(PHC)拡大のためのプログラムコーディネーター及びプロジェクトマネージャーをしていました。今回から3日連続で、当時の東ティモール情勢と医療体制などについて紹介いたします。
※2002年5月に独立
1999年8月、東ティモールでは住民投票の結果、インドネシアからの独立が決まりました。しかし9月にはブラックセプテンバーと呼ばれるように、併合派の民兵による大量虐殺と大規模破壊が行われ、国の90%以上のインフラや公共施設は破壊され燃やし尽くされました。つまりインドネシア統治時代に作られたものは、すべて破壊されてしまったのです。
JLMMとAFMETでは、予ねてから、医師、看護師、薬剤師等の医療従事者をフィリピンやインドネシアに配置し、いつでも東ティモールに入る体制を整えていました。彼らは、10月に国連軍が入った後、11月には緊急医療支援に入りました。(つづく)
東ティモール(1)「緊急医療支援へ」(Facebookで見る)
教室で授業を受けるアフガニスタンの女子児童たち
こんにちは!JPF助成事業推進部の進藤です。今回は、アフガニスタンの女子教育の現状について、ザクっと見ていきたいと思います。
日々、紛争、爆発事件や災害のニュースが報じられるため、アフガニスタンの発展を感じられない方が多いのではないでしょうか。長引く紛争、脆弱な社会インフラ、頻発する自然災害といった問題に目を向けると、アフガニスタンの前途多難な将来を悲観してしまうかもしれません。
90年代後半には100万人程度の子ども達しか就学できず、ほとんどの女児は教育の機会を奪われていたと言われます。しかし現在は、日本をはじめ国際社会の支援もあり、1,000万人以上が就学し、その数は10倍以上にまで増加しています? 初等教育については、男児は100%程度、女児についても80%以上の就学率に改善しています(※)。
※UNESCOによる国別データ http://uis.unesco.org/country/AF
私もカブールを訪れる機会があり、通りを車窓から覗くと、多くの女児が元気に通学している様子を見ることができ、アフガニスタンの教育環境の改善を実感することができました。
もちろん、課題は未だ山積しています。特に現在も未就学児童約370万人の内60%は女児だと言われています(※)。しかし、個人的にはアフガニスタン内外で教育を受けた、若く優秀な若者たちとの出会いを通じて、彼らが第一線で活躍する頃には、多くの課題を解決していってくれるだろうと楽観視もしています。現在、アフガニスタン政府内の要職には、徐々にではありますが、女性が就いているケースも見られ、学校で勉強に励む多くの女児にとって良いロールモデルが育っているように思います。
※UNICEFによる発表 https://www.unicef.org/afghanistan/education
引き続き、アフガニスタンは未就学児童ゼロ、女子教育の更なる普及に向かって歩んでいくでしょう。
アフガニスタン「女子教育の今」(Facebookで見る)
ブラチスラヴァのマルティン大聖堂
こんにちは!JPF広報の坪井です。スロバキアは人口が約540万人の小国ですが、複数の民族が暮らす多民族国家でもあります。スロバキア人が約430万人(80%)、ハンガリー人が約43万人(8%)、そして、次いで多いのは約11万人(2%)のロマ人(ジプシー)です(※)。スロバキア居住のロマ人については、数十万人に上ることが指摘されていますが、調査の及ばない集落に住む人々も多く、実態を把握するのは難しいようです。
※2011年のスロバキア国勢調査(次回は2021年の予定)https://onl.tw/hLVE6dc
欧州では、南欧や中東欧地域に数多くのロマ人が居住していますが、現地の人たちと話していると、ロマ人に対する偏見や差別が、少なからず感じられました。一方で、ロマ人支援に取り組むNGOも数多く存在しており、スロバキア時代には、ロマ人の地位向上や子どもへの教育支援などを実施するNGO関係者ともお話しする機会がありました。
ところで、ブラチスラヴァでは、ロマ支援以外のNGOにも何度か訪れましたが、ある時、同じ建物に何回も来ていることに気が付きました。よく見ると、入り口の表札には、投資家のジョージ・ソロス氏が設立したオープン・ソサエティ財団の名が。同財団が市内に保有する建物全体を、社会貢献の一環として複数の非営利団体に提供しているとのことでした。多民族の共生には困難も多く、スロバキアも例外ではありませんが、不平等のない開かれた社会、その実現を目指す人々がいることも確かな事実です。
スロバキア(3)「不平等のない開かれた社会へ」(Facebookで見る)
ブラチスラヴァ旧市街の通り
こんにちは!JPF広報の坪井です。今回もスロバキアについて紹介します。テーマは環境負荷の軽減です。
スロバキアの首都(わかりますか?ブラチスラヴァです)の公共交通としては、地下鉄がないことを除けば、欧州各国と同様に鉄道、バス、路面電車などが挙げられますが、その他、おそらく、今の日本人には、あまり馴染みのないトロリーバスも見られます。どんなバスかご存知でしょうか?道路の上にある架線から電気を得て動力としており、排気ガスを出さず、路面電車のように軌道を敷設する必要もありません。しかし、時々、バスから架線に渡した集電ポールが外れ、運転手が長い棒を使って、架線に戻しているのを見かけたことがあります。
ところで、ブラチスラヴァにも、当然、多くの自動車が走っており、幹線道路では渋滞も起こります。一方で、ブラチスラヴァの旧市街中心部は、車両の進入を規制しているため、許可のない車は入ることはできません。モノの輸送・配達には不便なことかもしれませんが、排ガス、騒音、そして、事故の危険を気にすることなく、安全に街を行き来できるのは、ありがたいことです。
ちなみに当時の職場は旧市街の中にあり、ドナウ河沿いを歩いて旧市街へと向かう朝夕の通勤は、この上なく快適でした。環境にも人にも優しい旧市街のモビリティ、このような施策の広がりは、SDGs達成にも寄与するものではないでしょうか。
スロバキア(2)「旧市街のモビリティ」(Facebookで見る)
丘の上に立つブラチスラヴァ城(ドナウ河の橋上から)
こんにちは!JPF広報の坪井です。今回はルーマニアから北上し、やはり赴任経験のあるスロバキアについて紹介いたします。皆さんは、スロバキアの首都の名前をご存知でしょうか?おそらく答えられる方はあまり多くないと思いますが、ブラチスラヴァと言います。ドナウ河畔に旧市街が広がり、街から続く丘の上には、ひっくり返したテーブルみたいと言われるお城が建っています。
さて、今回のテーマはエネルギーです。早速ですが、スロバキアの発電で最も割合が高いのは、何だと思いますか?実は、原子力発電で、54.7%(2018年)を占めています(※)。スロバキアでは、社会主義時代から、原子力発電が利用されており、2011年以降、EUの中では、ドイツやオーストリアが脱原発に舵を切った後も、エネルギー政策における、原子力利用の方針に変更はありません。
※出所:IAEA https://cnpp.iaea.org/countryprofiles/Slovakia/Slovakia.htm
ブラチスラヴァ赴任時代、しばしば、バスで1時間弱のウィーンに出かけていましたが、オーストリアに入ると、スロバキアとは、まったく異なる風景が見られます。そこには、おびただしい数の風力発電機が立ち並び、白く塗られた風車が林立する様子を、ドナウ河の水源であるドイツの「黒い森」になぞらえて、勝手に「白い林」と呼んでいました。なお、毎回、車中からぼおっと眺めていて、写真は撮っていません。興味のある方は、車でウィーンからブラチスラヴァに向かってみてください。
クリーンエネルギーを生み出す現代の白い林、この国境付近の景色には、両国のエネルギー政策の違いが明確に表れています。ところで、スロバキアのSDGs達成度は27位(2019年)ですが、目標7「エネルギーをみんなに そしてクリーンに」は達成された目標となっています(※)。クリーンで安価で持続可能なエネルギー、その捉え方は一様ではないようです。
※Sustainable Development Report 2019
https://github.com/sdsna/2019GlobalIndex/blob/master/country_profiles/Romania_SDR_2019.pdf
スロバキア(1)「白い林」(Facebookで見る)
木造の教会(ブカレスト農村博物館)
こんにちは!JPF広報の坪井です。日本とルーマニアの貿易関係を見ると、日本からは自動車部品や電気機器などが輸出されていますが、ルーマニアから日本への主要な輸出品としては、木材があげられます。ルーマニアの森林面積は、約650万ha、国土の27.5%を占めており(※)、欧州でも森林資源に恵まれた国の1つです。
※出所:林野庁 https://www.rinya.maff.go.jp/j/riyou/goho/kunibetu/rou/info.html
ルーマニアは、SDGs達成度では42位(日本は15位)ですが、目標15「陸の豊かさも守ろう」は達成となっており、特に生物多様性に重要な陸地や河川などの保護については、高い評価を得ています(※)。
※Sustainable Development Report 2019
https://github.com/sdsna/2019GlobalIndex/blob/master/country_profiles/Romania_SDR_2019.pdf
一方で、ルーマニアの森林において、違法伐採が横行しているとの指摘もあるようです。豊かな森、豊かな水源、生物多様性を守るため、持続可能な森林の管理は、引き続き重要な課題と言えます。
ルーマニア(3)「森の豊かさと生物多様性」(Facebookで見る)
ブカレストの凱旋門
こんにちは!JPF広報の坪井です。2月末、トルコがEUとの国境を開放し、再び欧州への難民の大量流入が懸念されましたが、コロナウイルスの感染拡大に伴い、EUは第三国からの入国を制限し、多くの難民がトルコとEUの国境に置き去りにされてしまっているようです。
2015年の欧州難民危機では、地中海を越えて欧州に向かう難民の姿が注目を集めましたが、ルーマニア赴任時代(2016~2018)、夏になると、地中海に面していないルーマニアでも、難民についてのニュースを見聞きするようになりました。トルコの黒海沿岸地域から出る密航船、その目的地の1つがルーマニアです。ただしニュースになるのは、密航船が拿捕されるからなのですが。。。
すし詰め状態のボートでルーマニアに辿り着いた後、難民たちが目指すドイツや北欧といった他の欧州諸国への道のりは、とても険しいのが現実です。また、望んでいた国には行けなかったり、家族を呼び寄せられなかったり、仕事に就けなかったりといったこともあります。
欧州に向かった難民、そして、アジア、アフリカ、中東、中南米など、世界各地の難民や国内避難民が、生活していく上で、困難な状況に直面しています。SDGsの掲げる「誰一人取り残さない」世界の実現のためにも、難民問題への取り組みは欠かせないものではないでしょうか。
▼難民問題とSDGsについてはこちら
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)とSDGs
https://www.unhcr.org/jp/wp-content/uploads/sites/34/2019/07/201907_UNHCR-and-SDGs.pdf
ルーマニア(2)「黒海を越えて」(Facebookで見る)
正面は「国民の館」(ブカレスト)
JPFは、SDGsという観点を踏まえ、スタッフが各国事情を紹介する連載を開始いたします。まずは、広報部の坪井より、赴任経験のある東ヨーロッパの国、ルーマニアについて、数回に分けて紹介させていただきます。
3月11日で東日本大震災から丸9年となりましたが、3月の同時期、個人的には、ルーマニアで過去に発生したという大地震のことも頭をよぎります。
ヨーロッパで大きな地震の発生する国としては、イタリアが有名ですが、実はルーマニアも地震国として知られています。1977年3月4日に発生したルーマニア地震(M7.2)では、首都ブカレストを中心に約1,500人が亡くなり、多くの建物が倒壊や損壊などの被害を受けました。今でも市内には、倒壊を免れた建物が一部で残っています。
そうしたことから、ルーマニアでは、日本の防災や耐震・免振技術への関心も高く、日本の専門家も参加した耐震建築セミナーや防災セミナーなども開催されています(※)。
SDGsの目標11「住み続けられるまちづくりを」、意外なところに日本とルーマニアの共通関心がありました。
※国土交通省:報道発表資料(2016年10月20日)
https://www.mlit.go.jp/report/press/house05_hh_000639.html
※日本防災プラットフォーム:イベントレポート(2017年3月15日)
https://www.bosai-jp.org/ja/news/detail/80
ルーマニア(1)「あまり知られていない地震国」(Facebookで見る)